北急延伸については、最近になって急速に露出が増え、僕も声を大にしているせいか(稀にですが)僕が発案したプロジェクトかのように誤解してる人すらいます・・・が、もちろんそんなことはありません。
僕が、今、全力で勝負をかけることができているのは、歴代市長のそれぞれの時代での努力の積み重ねがあり、ちょうどそれらの“機”が熟してきたからです。せっかくですので、そんな振り返りもここでまとめておきたいと思います。
まず、いきなり遡りますが、僕が驚くのはなによりも国道423号「新御堂筋」。
今でこそ当たり前のように走ってますが、大阪万博に間に合うように開通したこの道は、当時のことを考えれば、常識的には千里中央あたりまでで十分だったはず。野山・田畑以外になにもなかった萱野の地まで、(たぶん当時にしてみれば)無茶苦茶な幅広さのあの道路をブチ抜くという発想。・・・聞けば、かつての大阪市長(関一さん)が都市計画の専門家(大学教授)であったことが、すべての始まり。
「都市計画」とは“100年先を見通してつくる計画”といいますが、この道が箕面の中東部のすべての発展の礎となったことは疑いようもありません。都市計画恐るべし・・・北急延伸の発想も、この新御堂筋がなければ絶対に生まれてこなかったことと思います。
この新御堂筋の存在を前提として、北急を(新御堂筋と同様に)萱野まで延伸しようと着想して方向づけたのは、故・黒山宣雄市長の時代。
昭和43年9月に策定された「箕面市総合計画」(箕面市にとって初めての“総合計画”)に、すでに「特に軌道の市域内延伸は、本市将来の発展に不可欠な要件」「北大阪急行電鉄株式会社・高速鉄道1号線榎阪駅から府道御堂筋線に沿って国道171号線との交点までの新設路線の延伸」との記述が。

そして・・・まだこの頃は箕面市(だけ)が求めているにすぎなかった北急延伸構想を、正式に国の政策として位置づけ、“構想”から“計画”へと転化させて現実路線へ道をひいたのが故・中井武兵衞市長の時代。
昭和50年11月に策定された「新箕面市総合計画基本計画(原案)」(=第2次箕面市総合計画)には、「本市の将来の発展を考えるとき、北大阪急行及び阪急千里山線の延伸は不可欠」との記述が。ただ、この時点ではまだ「将来の課題」という構想レベルの扱い。
それが、この10年後、昭和61年に策定された「第3次箕面市総合計画」に、ついに「北大阪急行線や国道423号線(新御堂筋線)の延伸を促進する」と意思をもってハッキリ盛り込まれます。これが、おそらく正式な行政“計画”として鉄道延伸が掲載された一発目。
さらにその直後、平成元年、北急延伸が、初めて正式な運輸省(現:国土交通省)の運輸政策審議会答申に「整備に着手することが適当である区間」と位置づけられることとなりました。
ちなみにですが、今、箕面市が保有している貯金(基金)のほとんどは、この故・中井武兵衞市長の時代に積み立てられたもの。
北急延伸だけでなく、福祉施設・図書館・小中学校など、ときどきに必要とされた財政出動に箕面が対応してこれたのも、そして(本来あるべき姿ではありませんが)ここ数年の経常赤字に箕面市が(貯金を取り崩すことで)耐えてこられたのも、ひとえに故・中井武兵衞市長のおかげ・・・これを否定できる人は誰もいないと僕は思います。
ここから今の僕にバトンが渡ってくる間には、まだ3人の市長がいます。まだまだリレーは続きます・・・。
(北急延伸その8“歴代市長が繋ぐリレーのバトン(下)”に・・・つづく)