
もちろん、他をおろそかにするわけじゃありませんが、ヒト・モノ・カネのリソースをかなり積極的に教育分野に投入しています。
理由はいくつかあります。・・・市長1期目の当初から「子育てしやすさ日本一」を掲げてきた僕にとって、子育ての本丸とも言える“教育”に力を入れるのは当然ですし、市長2期目の選挙公約にも3本柱の一つに「教育改革」を掲げました。それに、子どもたちへの社会投資は、絶対にムダにならないという実感もありますし、世間的な教育分野への関心の高まり(いじめや不祥事に端を発している部分もあるので良くも悪くもですが)という背景もあります。
・・・というわけで、僕が「教育」について何を考えているのか。なかでも箕面市や市町村が担当する“公教育”について、どこが課題で、どうすべきと思っているのか、ちょっとずつ書いてみようと思い立ちました。(もしかすると何回か書くかもしれません・・・?)
そもそも、(特に教育関係者から)「市長が教育に口を出していいのか?」「教育委員会の仕事じゃないのか?」みたいなことを言われることが(たまに)ありますので、その点を先に書いておきます。
日本の教育関係者(の一部?)には「教育委員会の政治的中立性」の意味をはき違えてる人がいます。政治にとって、教育は神聖不可侵ではありません。そもそも、予算(お金)は市長と議会にしか決定権はなく、かつ、予算(お金)がなければ教育委員会は活動できませんので、市長や議会と教育委員会は日常的に議論しながら動いているのが現実です。つまり、教育はいつも政治と接触しています。おまけに(当然ですけど)教育委員を任命するのも市長と議会です。
現行制度の「教育委員会の政治的中立性」というのは、政治が大きく振れたり思想的になったりしたときに、その影響を受けない(緩和する)ことができるという点に意味があるのであって、普段から政治と接触しない、政治が教育にモノを言わないということではありません。
・・・したがって、市長として(今までもこれからも)教育についても気兼ねなく発言しますので、そこはご了承ください。
ただし、ここからは僕の個人的なポリシー(感覚?)になるのですが、僕は“教育の中身”に大きく踏み込むつもりはありません。
なぜなら、僕は、僕自身が受けてきた教育しか知らないからです。その教育は僕にとって心から良かったと思えるものでしたが、それが万人にとって正しい(合う)かどうかまでの自信はありません。だから、箕面の子どもたちにどういう“教育”をすべきか、その内容や手法については、複数の人たちで悩んで決めてほしい。そう思ってます。
そして、こんな感覚の僕にとっては、教育委員会制度って(あくまで「ちゃんと稼動するなら」って厳しい条件付きですが)真っ当な制度だなぁって感じたりしています。
一方、“教育の中身”には大きく踏み込む気はないものの、僕は「教育現場を動かしている“組織や仕組み”」にはけっこう課題があると感じていて、たぶん僕の発言や活動の大半はこの“仕組みを改善する”こと”が中心になると思ってます。
教育の“中身”ではなくて、それを実現する教育委員会や学校とかの組織が「ちゃんと機能してるのか?」「自律的に改善するシステムになってるのか?」といった“仕組み”の部分。・・・これを改善するのは、実際に組織運営を経験してる立場からのアプローチでなければ難しいし、当然、ダイレクトに予算も関わるので、ここに僕の働きどころがあると思ってます。
“仕組み”を改善していくことで、ひいては結果として“教育の中身”も良くなっていく。僕はそう信じて仕事をしています。
・・・って書きましたけど、“教育の中身”とか“組織や仕組み”とかって、なんのことを言ってるのか抽象的でわかりにくいですよね。だから、いくつか事例を。
(※ 以下は、過去とかの事例なので必ずしも現在の箕面市教育委員会ではありません。)
例えば、数年前、箕面市教育委員会は運動会の徒競走(かけっこ)で“等旗”(1位、2位とかのフラッグ)を使うことを方針化し、予算化して購入までしましたが、その後も数年間にわたり一部の学校の運動会では使用されてこなかった実態があります。
この場合、僕は「等旗を使うことの是非」にどうこう言うつもりはありません(その時代の教育委員会が議論して決めればいい)。でも、「教育委員会が方針化したことをなぜ学校が守っていないのか?」という“組織ルールが破綻していること”のほうに強い関心と問題意識を感じ、この点を是正しなきゃと考えます。
また、(これは他市で聞いた話ですが)例えば、校長が意思決定しているのに、その校長判断を職員会議が覆して実行しないという事象を仄聞しました。
(事実確認していないので、あくまでそうした事実があったとすればですが)僕は、その意思決定の内容をとやかく言うつもりはありません(そのときどきの教育委員会が是非を判断すればいい)。でも、上司の決定を部下が覆す(ボイコットする)ことがまかり通っているとすれば、その組織文化に強い疑念をもちますし、なぜそうなってるのか、どう改善していけばいいかに強い関心と問題意識をもちます。
また、これも例えばですが、ある小学校では卒業までに必ず25メートル泳げるようにすることを目標にして徹底的に頑張っているけれど、別の小学校ではそういう目標もなく子どもたちが泳げないまま卒業していきます。
僕は「水泳の目標を25メートルに設定すべきかどうか」にモノを言うつもりはありません(教育委員会で時代ごとに適切な目標を議論すればいい)。でも、同じ箕面市の小学校で、同じ教育委員会の傘下にありながら、学校ごとの到達水準に大きな差異があっていいのか?統一的な最低水準を担保するルールや仕組みが必要なんじゃないか?バラバラでいいなら、そもそもなんのための教育委員会か?という仕組みのほうに疑問をもち改善を考えます。
例示なのでうまく伝わるかわかりませんが、僕の「“教育の中身”でなく“教育現場を動かす仕組み”に課題意識がある」というのは、そんな感じ。
こんな事例ばかり書き綴っていると、すぐ「中央集権的な思想だ」「すべて指示に従えというのか?」「学校・先生の教育の自由が奪われる」などと批判する人も(ごく一部に)いるんですが、そういう方々には、僕らが携わっているのが私立ではなく“公教育”であることを忘れないでいただきたい。
公教育である以上、担当エリアにいるすべての子どもたち(僕の場合は箕面市の子どもたち)に平等に一定水準の教育を保障するのが、最低限の使命です。教育委員会の方針決定も、組織間の秩序も、組織内のルールも、すべてはそのためにあるのであって、個々の学校や先生の自由や個性というのは、それらをすべてクリアしたうえで発揮されるべきもの。
・・・普通の組織だったら当たり前のそのことが、ちゃんと実践できているのか、仕組みがちゃんと機能しているのか。僕は現行の「公教育」について、そのあたりに強い問題意識と疑義を感じています。
先般の「保護者が中心となる新しい教育委員会へ」も、そういう仕組みや体制を整える問題意識からのアプローチの一つ。日本教育新聞さんが記事にしてくれましたので、ここにご紹介しておきます。(クリックで大きくなります↓)僕は、この世に「唯一無二の正しい教育」があるとは思っていません。
教育は国家と不可分ではいられないし、時代とも不可分ではいられない。思想だって無関係ではないし、教育手法だって方法論がたくさんある。それに、1人の子どもが育つまでには年月がかかるし、その子どもたちが一時代を築くまでにはもっと歳月がいる。・・・教育は時代をまたいだ長期戦です。
だから「今、僕が個人的に正しいと思う教育をやる」のではなくて、「その時代その時代で最善と思われる教育の内容・手法が選択されて、ちゃんと実行されていく“社会の仕組み”」を整えることにどうしても強い関心をもつのです。
(続くかも?)