僕は、大阪の自治体の長にすぎないし、エネルギー分野にしたって(昔、ちょっとカジッたことがあるくらいで)専門でも詳しいわけでもない。でも、政治に携わっている身として、敢えて政治の役割として思ってることを書いてみたい。・・・ちょっとビビりながら。
■「脱原発」は当たり前 まず、昨年3月の福島原発の事故を経て、多くの人が、原子力発電はやばそうだ、やめたい(やめたほうがいい)と感じるのはとっても当たり前のことだと思う。
もちろん、企業活動の立場からとか、現実的な判断だとか、感情的ではない視点で「原子力発電は必要だ(必要なのではないか)」と考える人も多数いるだろうけれど、かといって心の底から「リスクがない」と言い切れる人がいるはずはない。
たぶん原発が必要と言う人であっても「もし本当に本当に本当にやめれるものなら、やめるなとまでは言わないが」というのが本音ではなかろうか。
あくまで民意が僕の感じる雰囲気だとすれば・・・だが、民意を汲んで社会を築こうとするのが「政治」であるなら、政治が「いわゆる脱原発をめざすこと」は当たり前のことだと僕は思う。
もちろん、民意だからといって闇雲にそれだけを金科玉条とするなら、結論のない衆愚政治に陥ってしまう。「政治」だって現実感をもつことは必要だ。だが「目標を設定し、目標に向かって努力をする」にあたり、その目標をできるかぎり民意を汲んだものにし、必死で考え努力していくということは、そもそもの政治の理ではないのか。
あれだけの事故が起こり、あれだけの不信を内外にばらまき、それを反映して今の民意があるならば、「まずは脱原発に向かって最大限の努力を試みること」は政治の当然の責務ではないかと僕は感じている。
■政治の役割は「現在」と「未来」 そもそも政治の役割というのは、(A)現在の社会を維持すること、(B)未来の社会をつくること、の2つだと僕は思っている。
今の煮え切らない政治家は、これまでの枠組みに縛られているだけ(=Aだけ)で、Bを放棄している。脱原発に踏み切れず「慎重論」を語る自民党がそう。その一方で、脱原発と言いながら新原発の設置を認めるよくわからない民主党も同じだ。
かといって、「脱原発か否か」だけで政治家や有識者に○×をつけたがるような人たちにも、僕は違和感を感じる。なぜなら「脱原発か否か」だけの議論は、しょせん忌避論であって、未来をつくる道筋を示さないし、その道筋の評価をしようとしないからだ。
今の問題は、政治の世界で「未来の社会をどうつくるか」(=B)が真剣に議論されていないことだと思う。政治は、現在と未来のどちらかではダメで、両方を一緒に考えなきゃいけない。この「未来」の色があまりにも薄い。
■未来をつくるのは「新たなエネルギーを創る」という目標 今、なぜ、エネルギー政策に戸惑うのか。それは今、僕たちが持っているツール(原発)のYes・Noしか議論になっておらず、未来の話ができていないからだ。・・・というよりも、未来への“想像力”さえも“圧倒的な現有ツール(原発)”に制約(制圧)されてしまっている、とでも言うべきか。
現有ツールの呪縛から脱して真剣に未来の可能性を議論し、もし腹を括って未来を定めることができたならば、現在をどう乗り切るかは「それまでのツナギ」の話にすぎなくなる。そうであれば選択肢は広がる。
現有ツールの呪縛から脱するとはどういうことか。それは「新たなエネルギーを創る」という前提で物事を考えてみることだ。
■完全無欠のエネルギーは、他のエネルギーを駆逐する 話は変わるが、政策として考えたときに、エネルギー枯渇国の日本が、新たな基幹エネルギーを創造し、技術とエネルギーの供給国になれたとしたら、世界は一変する。・・・多くの人は、これを夢物語だという。
でも、僕は違う。今、実は大きなチャンスだと思う。
なぜなら原発の存在が、他の新エネルギーの開発を抑制している事実があるからだ。
もし世の中に完全無欠のエネルギー源があったとしたら、他のすべてのエネルギー開発は無意味になる。ある意味、これは当然のことだ。
そして、意識的にせよ、無意識的にせよ、実はこれまで原発が「完全無欠に極めて近い」エネルギーだと認識されていたことに、改めて気づくべきだと思う。だから、他のエネルギー開発は、あまり本気でなかった(切実でなかった)実状もあったのではないか。
例えば「核融合」
(注:核分裂ではない) の国際協力研究として、7ヶ国(日本、EU、アメリカ、ロシア、中国、韓国、インド)で「国際核融合実験炉(ITER)」の準備が進んでいる。
7ヶ国がそれぞれの国家予算を投じ、かなり巨大な実験炉を構築しようとしているにもかかわらず、あまり注目も浴びていないし、今も昔も粛々と地味に進んでいるにすぎない。おそらく、実験炉が日本にできる可能性があったことも、かつて建設地を巡って日本とEUが綱引きを展開したことも、ほとんど知る人はいないだろう。
(※) ちなみに名称に「核」がつくせいで原発(核分裂)と混同されがちな「核融合」だが、まったく別の現象&技術なので、もし誤解していたらきちんと調べてみるべきだと思う。簡単に言えば、連鎖反応がないので暴走がありえないし、放射能は直接はでないし、CO2もでない。材料が水素・ヘリウムで安価で大量にあり、理論的には有望な技術の一つといわれている。この技術が本命かどうかは別として、7カ国もが共同で進めており、まさに現実に実験炉まで作ろうとしている段階のプロジェクトにもかかわらず、年間で投じられている予算は世界各国あわせても10億ドル(約800億円)だという(wikipediaによれば)。
ちなみに国が科学技術に投じる予算規模は日本だけでも年間約1.3兆円(科学技術振興費)もある。さらにちなみに規模比較の目安として、人口13万人という小さな箕面市の行政活動でさえ総予算規模は年間1300億円だ。・・・全世界で10億ドル(約800億円)というのは、果たしてどの程度の真剣さなのだろうか。
そう、僕には新エネルギーという分野、なかでも新たな“基幹”エネルギーの開発という分野は、各国とも、おつきあいのレベルにすぎないように感じられてならない。でも、それも当然と思う。今なお世界では原発が完全無欠に近いスーパーエネルギーという認識なのだから。
・・・でも、僕は、この状況はチャンスだと思っている。なぜなら、唯一の被爆国である上に、今回の原発事故を経験した今の日本しか、本気で原発をやめるという(世界的には非常識な)モチベーションを持ちうる国家はありえないからだ。
■新たな基幹エネルギーの開発は非現実的か? 多くの人が「脱原発は非現実的だ」と言う。「原発に代替しうるエネルギーはない」のだと。果たしてそうだろうか。
非現実的というなら、山中教授のiPS細胞にしたって「成熟した細胞を初期化する」などという発想は、2000年当時は荒唐無稽なものではなかったのか。
つい30年前に「大きなショルダーバッグ」だった携帯電話が、ここまで小型化して普及した上に、スマホなどという高度化を遂げ、生活インフラとして不可欠な存在になるなんて、予測できたのはマンガやSFの世界だけではなかったのか。
「非現実的か?」と問われれば「現実的だ」と言い返す術はない。今、存在しない技術なのだから。でも、正確には「不確実だ」と言うべきだろう。
では「不確実だ」として、政治が不確実なことを語ってはいけないのか。僕は違うと思う。むしろ政治にしか不確実なことは語れない。未来の話なのだから。不確実であろうと「めざすこと」から始めなければ、世界は変わらない。
「確実かどうかわからないのに無責任だ」と言う人もたくさんいると思う。でも、未来を築こうと努力する試行錯誤は、果たして無責任なのだろうか。ならばこの国で、どの程度の無責任までなら許容されるものなのか、それこそ選挙を通じた民意でしか決められないし、まさに民意が決めるべきことだ。
■政府の「革新的エネルギー・環境戦略」は革新的でない もちろん、原発の代替を、再生可能エネルギーばかりに求めるのはいかがなものか?と思う。「脱原発なんて無理でしょ」という現実論者の多くは、発電規模からして再生可能エネルギーでは代替不可能との指摘をする。
たしかに、原発1基の発電を安定的にまかなおうとすれば、箕面市の面積(約50平方キロ)の太陽光パネルがいる。一つの原発群が4〜6基程度だとすれば、大阪市の面積(約220平方キロ)の太陽光パネルがいる。それだけの山を削るのか?その産廃はどうするのか?・・・試算が正しいかどうかはわからないが、そんなことを言われれば、正直、僕もそんな気はする。
もちろん未来はわからないので可能性がないとは思わないが、再生可能エネルギー「だけ」にこだわるのはやめたほうがいいと思う。必要なのは新たな「基幹」エネルギー技術なのだから。
ちなみに、9月にまとめられた政府の「革新的エネルギー・環境戦略」は、そもそも革新的ではない。その証拠に、序文(はじめに)にいきなり「無謀な夢物語ではない、実現可能な戦略。」と宣言されている。
実際、その内容のほとんどは、エネルギー利用の効率化(節電・再利用)と、火力発電など旧来型エネルギーによる安定供給に割かれており、「次世代エネルギー関連技術」に至っては全20ページ中たったの3行で済まされている。・・・基本的には現世代のエネルギー技術で済ますということか。
この“夢と希望のなさ”加減には、“不確実な未来など語れない”という官僚組織の限界(←これはこれで必要な役割ではあるが)を感じざるをえない。そして、それをただ了承している「政治」も情けない。
目標が「原発稼働ゼロ」では未来は創れない。せいぜい、これまでのリソース配分が多少変わるだけだ。「原発が完全無欠だ」という世界常識がある限り、それに引きずられ続ける末路だと僕は思う。
■ケネディ大統領の「人類を月へ送る」宣言 僕は、ケネディ大統領が1961年に「人類を月へ送る」と宣言した(してしまった?)のと同じことを、今の日本の政治はすべきだと思っている。「原発に代替しうる新たな基幹エネルギーを2030年代に実用化する」と宣言できるのは政治しかない。
そのために、僕は、年間約1.3兆円の科学技術振興費というリソースを、すべてこの国家目標に集中投入してしまうべきだと思う。すべての投資対象を「新たな基幹エネルギーを2030年代に実用化する」という目標に沿うものに限定して振り替えるのだ。
全部を振り替えると言うと、暴論に聞こえるかもしれないが、アメリカも宇宙開発からたくさんの技術が民生化・産業化された。エネルギー技術という領域も限りなく広大だ。世界一のスパコン(計算)技術だって、遺伝子レベルの先端医療だって、実は基礎から実用までと考えればエネルギー分野にとって必須の技術だ。広い意味で目標に貢献する技術は投資対象にすればいい。でも、常に目標への貢献を意識させることが重要だ。
今の科学技術振興費にポリシーはない。極めて総花的な投資になっている実態がある。もちろん、どこで起こるかわからないのがイノベーションなのだから、一概に総花が悪いとは言わない。でも、今が国家的ターニングポイントなのであれば、方向を定めることが悪いこととも思わない。結果として派生イノベーションも大量に出てくることだろう。
そして、こんなに非常識で突拍子もないことができる環境にある国は、世界中で日本しかなく、かつ、チャンスは国民的意識の高まっている今しかないということを、ぜひとも再認識してほしい。
■政治の役割ってなんだろう 原発は唯一無二の基幹エネルギーなのか?僕は本気を出せば違う世界もありえると思う。
政治は「現在」と「未来」の両方を語らなければならない。未来は今の常識では測れないのだから、政治家には、ぜひとも現在の呪縛をぶちやぶって考えてほしい。
僕は「原発推進派か?」と問われたら、ここまでの文章を読み返せば、たぶん「違う」ということでいいと思う。
かといって、反原発派とか脱原発派とか卒原発派とか、そういう自覚はまったくないし、原発廃止運動に傾注するつもりもない。ちなみに、この「反」「脱」「卒」の使い分けもよくわかっていない。
したがって、急進的な反(脱・卒)原発派の方々も、急進的な原発推進派の方々も、いろいろと言いたいことはあると思うが、このブログのことは放置しておいてほしい。
それよりも、急進的でない(?)自然体の多くの方々、それと特に政治に携わる人たちに、なにか考えるきっかけになればいいなと思っている。・・・とにかく議論が閉塞してるように感じるから。
僕は地方の一首長にすぎず、仕事としてエネルギー政策を語る資格はない。だから無責任な評論にすぎないことは事実だ。
でも、このブログを、地方の一首長の戯言だと流すのか、コレを実現するのはもしかしたら自分かもしれないと受け止めるのか、そこは読んでいただいた政治家(&政治家志望)の人たちに委ねたい。・・・少しでも良い未来を築くために。
■終わりに 〜 JFK「THE MOON SPEECH」より THE MOON SPEECH John F. Kennedy at Rice University - September 12, 1962 (抜粋)
We choose to go to the moon.
We choose to go to the moon...
We choose to go to the moon in this decade and do the other things,
not because they are easy,
but because they are hard,
because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills,
because that challenge is one that we are willing to accept,
one we are unwilling to postpone,
and one which we intend to win, and the others, too.
我々は月へ行こうと決めた。
我々は月へ行こうと決めたのだ。
我々が10年以内に月へ行こうと決めたのは、それが容易だからではなく、むしろ困難だからだ。
この目標こそが、我々の熱意と技術の結晶を集結させ、それがどれほどのものかを知るのに資するからだ。
この挑戦こそが、我々が喜んで臨み、先延ばしを良しとしないものだからだ。
そして、この挑戦こそが、まさしく勝ち取りたいと強く望むものだからだ。
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